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阪神淡路大震災の思い出

震災から4年がたった。被害にあった人も、そうでない人も、それぞれがそれぞれの思いで、あの日の事を思い出していることだろう。被災地では今でも不自由な生活を余儀なくさせられている人達が、大勢いるそうである。全国的な不況の中にあって、神戸の失業率はさらに高いそうだ。家族や友人を亡くした人の悲しみは一生消えないだろう。揺れは止まったけれど、震災はまだ続いているようである。ここでは、阪神淡路大震災に対する僕自身の個人的な思い出を書いてみようと思います。とりあえずその日の朝のこと。

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95年1月16日昼頃、小さな揺れを感じた。「あれ、珍しいなあ」って思った。そう、神戸で地震は珍しいのだ。しかし誰があの小さな揺れを、翌朝の大惨事の予兆だと想像できただろうか?僕自身もまったく気にとめることなく、平和な、普通の一日を過ごした。

そして17日。この日僕は少し早起きして、柔道の朝練に行くつもりだった。この頃僕はやけにやる気があって、「勉強も部活も頑張るぞー」という感じだった。ちなみに、好きな女の子がいたのもこの時期だ。その事を書きだすときりがないから書かない。でも取り合えず、なんだか毎日が楽しくて、充実していた時期だった。

それは後に5時46分だと解かったのだけれども、早朝、自分の部屋のベッドの上で、今まで体験したことのないような揺れを感じて目が覚めた。揺れを感じてというか、縦揺れのせいで体が跳びはねたのだ。縦揺れ、横揺れ・・・。訳がわからない。出来ることはふとんを被る事だけだった。正直言って怖かった。もう、本当に訳がわからなかった。「地震」って事を理解するまで、どれくらいかかっただろう?理解をはるかに越えた状況に遭遇すると、人間は何もできない。普段信仰心がない人だって、こんな時は「神頼み」をしたくなるだろう。僕もその時、ただ「助けて下さい」って祈るしかなかった。だって、何も他にすることが出来なかったからだ。

最初の大きな揺れが収まるまで、何分ぐらいかかっただろう?やっと歩く事が出来るようになって、最初に行ったところは、両親の部屋だった。姉二人もそこに集まった。こういう時、やはり家族は頼りになるものだ。とは言っても、勿論みんな混乱していたので、何が出来たって訳でもない。正直なところ、そこでいったい何をして、何を考えていたのかはあまり覚えていない。わずかに覚えている事は、父親がラジオをつけようとしていた事と、もう一度大きな揺れがきた事と、母親がその時泣きそうな声で、「いい加減にしてよ!」って叫んだ事ぐらいだろう。本当に、もうやめてほしかった。

何度も何度も余震が来て、どうしたらいいかわからなかった。「ここにいていいのだろうか?」という疑問もあったけれど、動く事はさらに恐ろしかった。こんな時少しでも地震に対する知識があれば、もう少し冷静に行動できていたのだろうか?僕達家族は、勿論初めての経験な上に、地震に対して無知であった。

揺れがひとまず収まるまで、どれくらいたっただろうか?とても長かったような気がする。僕達家族は取り合えず階段を降りて、一階の居間に集まった。
 

そのうち続きを書くかもしれません。

1/18/99

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