home>essay>TDRでのバイトの事1

TDRでのバイトの事1

アメリカに来てから2つ目のセメスターの時、つまり97年の春セメスターの時、僕は授業がそんなに忙しくなかったのと、お金を稼ぎたかったのと、英語をもっと勉強したかった理由で、学校のTDRと呼ばれる食堂で働く事にした。これはその時経験して、思った事の話。

僕が始めた part-time job(いわゆるアルバイト)は、週三日のうち二日が食器係で、残り一日がデザートの係だった。食器係は巨大なマシーンを使って大量の食器を洗う事と、洗った食器を所定の場所に置く事、それと最後に食べ残しを入れた巨大ゴミ箱から、ゴミを捨てる事が仕事だった。デザート係は、冷凍庫の中に入って色々取り出してたり、ケーキを切ってお皿にのせて並べたり、ソフトクリームマシーンにソフトクリームの素を流し込んだりするだけで、少し楽な仕事だった。それらの仕事の他、テーブルを拭いたり、塩コショウを用意して並べたりするのは、毎回僕の仕事でした。ボスの言い付け通り、言われる事を真面目に几帳面にこなしていたので、結構気に入られて、あれをしてくれ、これをしてくれと頼まれて、せかせかとよく仕事をしたものです。でも今考えてみると、「便利な東洋人だ」って感じで、こき使われいただけなのかな?

まあそれはともかく、とにかく色々経験が出来て、TDRでの仕事はバイト料以外に得るものが多かったです。例えば、僕以外にそこで働いていた従業員は、アフリカン・アメリカンの兄ちゃんや、おっちゃんや、おばちゃんばっかりだったので、ブラックの文化を感じる事が出来た事とか。学生にも黒人は大勢いるけれど、TDRの cousin(従兄弟)[注1]は、経済的余裕があって、大学教育を受けている黒人とは違う、言っちゃ悪いけれど下品な感じを与える人達でした。彼らの基本はやはりリズムで、食器を洗っている時も、ケーキを盗み食いしてる時も、絶えず踊りながら行動していたのが、非常に見ていて面白かった。ある時兄ちゃんが、僕に腰を動かしてみろって言うからやってみたんだけれど、どうやらお気に召さなかったらしくて、「こうするんだぜ、メーン」と言わんばかりに実演してくれて、「ああやっぱ本場は違う・・・」と思いました。

とにかくブラックの彼らはアクセント[注2]が強くて、最初は全然何言っているのか解かりませんでした。来てから4ヵ月ほどたっていたのだけれども、最初に食器洗い室に踏み込んだ時は、まるで初めて空港に降り立った時に感じた感覚のように、全く違う世界に来た感覚を覚えた事を覚えています。はっきり言って一緒に仕事出来るのか心配だったんだけれど、でも結構みんな親切で、色々教えてくれました。そんな一人が、食器係のマルコムでした。

僕が師事していた食器係のマルコムと言うおっちゃんも、これでもかと言うほどアクセントがキツイ人で、最初の方は何を話しているのか、全く解かりませんでした。親切で色々教えてくれたんだけれど、本当に何が何だか解からない人でした。その彼が、ある時急に倒れて、救急車で運ばれてビックリしたんだけれど、一緒に働いていた人の話ではHIVに感染しているらしくて、二週間ほどして職場に帰って来たんだけれど、見るからに痩せていて悲しかったです。その頃の僕にとってそれはとても衝撃的な事だったんだけれど、でも別にそれは特別な事ではなかったのだなあって、今になって思います。ここ1年ぐらい会っていないけれど、まだ元気かなあ?

次のセメスターからはクラスの関係もあって、もうTDRで働く事は出来なかったんだけれど、たった3ヵ月という短い期間だったけれど、まだアメリカに来てから1年目だった僕にとって、そこでの経験は色々な面で特別で、とても貴重なものでした。

 
 
注1 マルコムが僕を呼ぶとき、いつも"Hey cousin!"と言っていた。最初は訳がわからなかったんだけれど、僕の事を「従兄弟」って言ってからかっていたようだ。(まあ、さすがに What's up brother? とは言われなかったけれど・・・)悪い気はしない。なんだか楽しかった。

注2 ちなみに半年ほどして(来てから1年ぐらい)もう一度働こうと思って白人のマネージャーに会いに行った時、働いていた時まだ解かりにくかった彼の英語が、ほとんど解かるようになっていてかなり嬉しかったんだけれど、食器洗い室に行ったら、相変わらずほとんど何言ってるのか解かりませんでした。ガーン・・・
 

6/6/99

無断転載を禁じます。(C) 1999 Yuichiro Yamada. All Rights Reserved.