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礼儀の事(日本は大丈夫なのか?)

「礼儀を守る」というのは日本の伝統文化の美徳の一つだと思う。僕はアメリカで生活している事によって、改めて日本の伝統的な考え方の素晴らしい点だと気がついた。目上の人を敬うというのが、典型的な例であると思う。もちろん極度な年功序列社会によって引き起こされる弊害もあるけれども、色々な点で礼儀を守るという伝統的日本社会は、世界に誇ってよいものだと思う。

「礼儀を守る」というのは、勿論日本だけの慣習ではない。中国・韓国など、多くのアジア諸国は特にそうだし、アメリカ人だって礼儀正しい人が大勢いる。例えば以前同じクラスを選択したアフリカンアメリカンの男性に、以前約束しておいた写真を送ったら、すぐに感謝の返事が来た。「礼儀を守る」というのは世界共通の価値観なのだ。

ところが僕が危惧しているのは、世界に誇ってよいはずの日本における礼儀という習慣が、徐々に乱れつつあるという事だ。そしてそれを引き起こしているのは他でもなく、僕達の世代である事がとても残念に思える。例えばつい先日、朝日新聞を読んでいた時に、とても残念な記事を見つけた。

その記事は仙台市で行なわれた成人式の話だ。今年の成人式は早稲田大学の吉村作治氏をスピーカーとして招いたそうだけれども、出席している新成人は、ほとんど誰も話を聞かずに、友達と、もしくは携帯電話で、大声で話していたそうだ。当然の事ながら吉村氏は怒り、仙台市長は詫び状を出したそうである。

ある新成人の言い分だと、成人式は友達に会いにくるのであって、市長や学者の話を聞きに来るのではないのだそうだ。なるほどその意見は解からないでもない。実際僕自身、留学の為成人式には出られなかったのだけれども、友達に会えなかった事を一番残念に思っている。しかし友達と話をする為にやってきたからと言って、人の話を聞く時にそれを聞かない上に、大声で勝手に話をして、それに対して何も罪悪感を感じないという事は、とんでもない間違いだと思う。礼儀を守るという事以前に、人間としての感情の持ち方に問題があるのではないかと、僕は疑ってしまう。

想像してみたら、なんだか本当に悲しくなる。吉村氏は世界的に有名な考古学者。おそらく彼は会場一杯の新成人相手に、為になる、またはおもしろい話をしようと彼なりに考えていたはずだ。そしてその思いは相手にされることなく、完全に無視されたのだ。別に有名な人に対してだから、話を聞かなかった事に対して悪いと言っているのではない。会場のみんなは、一個人である吉村氏に対して「申し訳ない」とか、「かわいそう」とか思わなかったのだろうか?僕が「人間としての感情の持ち方に問題がある」と書いたのは、人の気持ちを察する事を放棄しているように思えるからだ。

親の世代でも、こういう事があったのだろうか?そんな事はないと思う。親の世代、そしてそのまた上の世代なんかは、日本的な嫌な習慣を持ちながらも、礼儀をはじめとして、多くの素晴らしい日本の文化を持っていたのだろう。真面目だったところや、向上心があったところなどはその一つだ。ところが僕達の世代は、親達が持っていた悪い文化を継承し続けている一方、親達が持っていた素晴らしい文化を捨てつつあるのではないだろうか?

古来日本が持っていた悪い文化とは何だろうか。例えばそれは、同一性を求める文化だと思う。島国に住み、農耕民族であった日本人には村の掟があって、それを破るものは村八分にされたのだ。勿論その文化は落ちこぼれを少なくし、平均的に優秀な人間を多く作り出す事によって、地域の安定、戦後には高度成長にもつながったのだけれども、異端な者、あるいは個性の強い人、もしくは信念を持った人は取り除かれたのである。そして僕達の世代にも「村の掟」は存在する。村の掟を破るもの、つまり少し変わった奴は「いじめ」られるのだ。学校でそうであり、会社でそうであり、社会全体がそうなのだろう。この悪い文化は親の世代どころか、大昔から今日まで継承されてきた日本の悪い文化だ。

そして今、「悪い文化を引き継ぎ、素晴らしい文化を捨て行く日本の社会は大丈夫なのだろうか」と、僕は思う。僕達はそのような日本を誇りに思う事ができるだろうか?僕は毎日インターネットで新聞を読むけれども、ニュースと言えば荒廃した世の中の事ばかりだ。再生の為にまずしなければならない事。それは「礼儀を守る」という基本的な部分を、一人一人が再認識する事ではないだろうか。
 

1/27/99

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